長春文化広場

時間: 2015-03-31 14:53 情報源:
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  文化広場は1996年8月に作られた長春市最大の市の中心にある都市内レジャー広場です。周りを東民主大街、解放大路、西民主大街、吉林大学朝陽校区が囲んでおり、総面積20.5平方メートルと国内でも有数の広さを誇ります。

  その前身である地質宮広場は偽満州国時代に国都広場として、1933年に建設され、名を帝宮広場、順天広場といいました。中華人民共和国建国の後は長春市の大型集会広場として、政治的に重要な役割を果たしていました。80年代初期には東部の緑化が進められました。

  偽満州国が設立した後、日本人の手でここ長春の都市計画が進み、まず、現在の解放大路以北、東、西民主大街に挟まれたこの地を宮廷建築用地としました。

  地質宮は偽満帝国八大統治機構(八大部)の中心、新民大街の北端、現在の長春課外技術大学の教学楼に建てられました。ここは以前、偽満帝国の宮内府の所在地でもあり、溥儀皇帝の正式な皇宮として建てられました。1938年9月に工事が始まったあと、太平洋戦争開戦の煽りを受けて、財政難となったのち、工事が停止され、地下部分が完成したのみに終わりました。宮殿のような今の建物は50年代に建てられたものです。

  1953年、出来上がっていた基礎の上に、3万㎡の緑色の屋根の宮殿式建築が建築されました。また、そこが長春地質学研究院教学楼であったため、地質宮と命名されました。地質宮は典型的な中国古代建築で、目の前にある広場は文化広場と呼ばれ、18万㎡の広さを誇ります。宮内には、地質博物館があり、たくさんの珍しいダイヤモンド、鉱物、古代生物化石標本、恐竜化石や骨格、宝石、象牙、三葉虫などが館蔵されています。歴史の悠久さを感じることができます。豪華な内装などはなく、赤色の木製の床に素朴な陳列棚といったものですが、所蔵物はどれも珍しいものばかりで、地質学の聖地ともいえるでしょう。

  また、草坪広場には50万人以上の人びとが集会できますし、宮殿の中軸から南を望めば広さ80mの新民大街が南湖公園まで一直線に伸びています。また、新民広場は長さ1500mで松、柏、チョウジなどの風景が広がっており、道路の両脇には、天高くそびえる柳の木がそびえたっています。偽満帝国の国務院やその下部組織八大統治機構の弁公室もこの通りにあり、建築物も独特で見ごたえがあります。

  1996年初め、長春市政府の承認を受け、地質宮広場という名前を文化広場と改名し、同年5月に改造工事が始まりました。芝生をメインに、植物をふんだんに植えた文化広場とすることが計画され、キャラボク、クロマツ、キハダ、オヒョウモモなどの樹木、そして、たくさんの花卉が植えられ、色鮮やかになりました。同時に、1998年から2003年まで続けて、広場の四方すべての主要な入口に人物石像を建て、それぞれが四季を表しています。

  改造工事の後、従来の東西に2分された管理制度を打ち破り、東西対称の構造を用いて、統一の管理制度を作りました。中心の広場には高さ37mの彫刻「タイヨウチョウ」がたっています。(中国の古代神話の中で、太陽にいるとされる足が3本あり、人間の顔と鳥の体を持つ鳥を象った彫刻で、腹部にはその神話が書かれており、その神話と現代的な彫刻芸術の表現を用いて、人々の太陽への賛美と光への欲望を表しています。)

  文化広場には一般開放以来、毎日平均1万人以上の旅行客が訪れ、ピーク時には10万人以上の人が訪れます。長春映画祭、長春本市、科学技術展覧会、アジア芸術祭、全国自動車ラリーや香港・アモイ返還などの記念パーティ、長春建城200周年、大博覧会など省や市の一大イベントがこの場で開かれました。毎年、大型・中型の文芸演出も100回以上行われ、民間のイベントもたくさん見られます。毎日毎日かわるがわる行われる活動は我々の目を引き付けて放しません。

  建築特色

  文化広場はもともと溥儀の皇宮建設の計画に端を発します。傀儡国家の皇帝である溥儀が住まわうことなく、建国後、長春地質学研究院の拠点となりました。今の建物は、梁思成の設計によるもので、郭沫若により「地質宮」と名前が付けられました。前には大きな広場があり、その名を地質宮広場(偽満帝国時代は「順天広場」)と名付けられました。

  南北にはそれぞれ男女の彫刻があります。南にある青年男子を象った彫刻は、両手を太陽に向かって掲げ、あたかも大自然を抱擁し、未来を呼び寄せるかのような印象を与えます。その屈強な体には無限の創造力があり、男性の逞しさを表しています。彼は昼を象徴しており、タイヨウチョウと呼応しています。北にある女性の像は、安らかで物静かな女性を象っており、女性の繊細さを表現しています。また、逞しさだけでなく繊細さも人間なのだということも表しています。彼女は夜を象徴し、水中月と呼応しています。