長春の創建
行政建置の沿革
長春は歴史が長く、国家的歴史文化名城だ。紀元前4万年~紀元前2万年の時代、長春地域で最も古い原始人集団「ユーシュレン(榆树人)」の遺跡が発見されている。漢代から隋唐代にかけて、長春地域は順に夫余国(ふよこく)、渤海国(ぼっかいこく)の管轄下に属した。
1800年、清王朝は長春廳を設置した。長春廳の設置は、長春市誕生の嚆矢となった。
1889年、長春廳は長春府に格上げされた。
1913年、長春府は長春県に改められた。
1932年、新京特別市に改称された。
1948年、長春特別市に改められた。
1949年、長春市と改称された。
1953年、長春は中央直轄市に指定された。
1954年、吉林省人民政府が長春に移転し、長春は吉林省の省都となった。
1979 年、長春は全国15の経済中心都市の一つに指定されました。
1989 年、長春は国家計画単列市に指定された。
1994 年、長春は国家により副省級都市に確定されました。
2000 年、1800年7月8日が長春の建城記念日と定められた。
編集:李孟群
近代の長春
1948年10月19日長春が解放され、長春の都市発展が新たな歴史時期に入った。解放後、長春の都市機能は3つの発展段階を経験した。
(一)消費型都市から生産型都市に転向 陥落の間、長春は日本の東北植民地支配の中心になり、商業が発達し、ホテル、旅館、映画館が多く、また日偽機関団体や役人しか利用できない各種の「会館」もあり、煙館と女郎屋が極めて盛んであった。工業生産面では、いくつかの建築業、建材業のほか、主に印刷、マッチ製造、製粉、制油、酒の醸造、食品、タバコなどの消費資料工業があり、規模が小さく、設備も遅れていて、典型的な消費型都市である。国民党が長春を二年以上占拠したが、ほとんど建設しなかったため、長春消費型都市の性質も変わっていなかった。
1948年長春解放後、長春市党委員会、市政府は消費型都市を生産型都市に改造しようと決心した。4年間の努力を経て、長春の国民経済が全面的に回復し、一定の発展も得た。1952年全市国営工業総生産額は1949年より4・3倍、集団工業総生産額20倍、私営工業総生産額2 . 6倍の増加があった。国民経済の回復と発展、特に国営経済の発展と壮大に伴って、長春の経済構造は根本的な変化が発生した。国営経済を主体に、集団経済を補助に、私営経済を補充にする社会主義の経済システムが形成された。国営経済の急速な発展は、長春市消費型都市から生産型都市へ転換するための礎になった。第一次五年計画期間、長春の第一自動車工場の建設が完成し生産に入り、バス工場、機関車工場、ディーゼルエンジン工場、トラクター工場など、多くの中央国営企業が続々と建設し、生産に入った。中央工業の後押しで、地方工業の発展は急速になり、根本から長春工業の遅れた状況を変え、消費型都市から生産型都市への転換を完成させた。
(二)閉鎖型都市から開放型都市への転換 長春市は曲がりくねった発展を経験した後、閉鎖型都市から開放型都市に転向し始めた。長春市は第二次五年計画をスタートし始めた時には、「左」翼思想の影響で、国民経済が深刻に失調した。工農業生産はやむなくて退いた。3年の調整を経て、長春工農業生産が回復し始めた。「文化大革命」期間中に、工業生産が閉鎖式の「少而全」(小規模でも全てが完備する)をしたが、農業生産は「窮過渡」(貧乏過渡)、「条块分割」(縦割り行政管理)をして、地域封鎖が深刻になり、回復したばかりの農業生産はもう一度降板した。中国共産党第十一期第三回全体会議の後、経済建設を中心とし、改革開放を堅持し、長春の都市発展が新たな歴史時期に入った。改革開放以来、長春市が国内と国際の二大市場を掴み、「企業誘致、資金引入、対内引導、対外連絡、 協力して一体化し、優勢互補」などを行い、閉鎖的な管理体制を突き抜けた。国内の横向経済連合に関与する同時に、国際経済の大循環にも積極的に参加し、長春市を中心に、県城を絆に、農村を基礎にした都市管理パターンを築き、輻射力と吸引力を強め、より都市機能の開放を促し、開放型都市への転換を完成した。
(三)近代の中心都市から現代国際都市へ転換する 長春市委員会は長春都市の発展、変化経験をまとめて、長春の都市発展に重要な戦略的な方針を決めた。30年ほどの時間をかけて、長春市を現代国際都市に建設することにした。市委員会は三歩に分けてこの戦略目標を実現しようと決定した。1993年から2000年までは基礎を固める段階; 2001年から2015年までは発展段階、2015年の2020年までは完備、高める段階にした。長春市を高度発達する市場経済、高度発展の精神文明、高効率の基礎施設、高レベルの都市管理、高品質の生態環境のある都市に建設し、長春市にアジア太平洋経済圏、世界経済の中で重要な地位を占めさせる。
長春大事記
1800年 7月8日清政府地に治所を設け、長春庁を設立した。
1825年 長春庁衙署が寛城子に移転し、即ち今日の西四道街の一帯である。
1865年 長春商民たちが募金して城壁を修築した。
1884年 長春庁撫民通判李金鏞養正書院を創立した。
1901年 にロシア人は長春の第一基の汽車駅---寛城子駅を建立した。
1906年 長春商業港を開放してから、地元政府は白銀九万两をかけて道台役所を建てた。
1907年 日本人は長春汽車駅を建て始め、満鉄長春付属地の企画と建設が始まった。
1912年 吉長鉄道が開通した。
1931年 9月19日 日本軍が南岭兵舎を攻略して、長春は陥落した。
1932年 3月9日 偽満州国が成立し、愛新覚羅溥儀は執政に就任した。
1934年 3月1日 愛新覚羅溥儀が即位して帝を称し、年号は康徳であった。
1932年 11月 日本関東軍は『大新京都市計画」を司会して、大規模な都市建設を始めた。
1945年 8月19日 ソ連軍が長春に入り、日本関東軍が降伏した。
1948年 6月25日 東北人民解放軍による長春包囲戦が始まり、包囲中、市内十万余の市民が死亡した。
1948年 10月19日 駐長春国民党守軍がそれぞれ蜂起、降伏し、長春が解放した。
1948年 10月15日 長春特別市市政府が成立した。邹大鵬が市長に任命された。
1953年 7月15日 第一自動車製造工場が定礎した。
1954年 9月27日 吉林省人民政府は吉林市から長春市に転入、長春市は主都になった。
1955年 東北映画制作所は長春映画制作所に改名した。
1958年 8月 長春市の最初の人民公社は小川台郷で成立した。
1968年 瀋陽軍区の承認を経て、長春市には革命委員会を成立した。
1980年 8月 国務院は東北三省で商品建設、商品食糧建設の基地を建設し、長春市5県も指定されていた。
1980年 10月 長春市は日本の仙台市との友好都市を結んだ。。
1984年 11月 君子蘭は長春市の市花に定められた。。
1985年 8月1日長春テレビ局が正式に放送をスタートさせた。
1991年 3月南湖---南岭新技術工業園区を正式に長春高新技術産業開発区に改名した。
1992年 8月23日 長春で第1回中国長春映画祭を開催した。
1999年 中国第一列、時速200キロの電動の旅客列車は長春客車廠で完成した。
1999年 5月14日に国務院は『長春市総体規(1996 -- 2020)》を実施することを承認した、長春市の都市性質が確定した。
長春記念日
1931年9月19日長春陥落 1931年9月18日の夜10時20分に、「九?一八」事変が突発した。日本関東軍参謀板垣徴四郎、石原莞爾などの陸軍参謀団中堅が瀋陽北部の柳条湖の南満鉄道を爆発させることを企んだが、逆に中国軍がやったという罪を着せ、突如、瀋陽北兵営を襲撃し、瀋陽城を砲撃した。蒋介石の抵抗しない政策の指導の下で、中国軍は敗退し、19日未明に瀋陽が陥落した。
一方、長春に残った日本軍の主力第三旅団と公主嶺に屯駐していた日本人騎兵らは長春に攻め入り、長春が陥落した。1945年8月15日長春が解放した。
1945年8月6日の朝、アメリカの初の原子爆弾が日本の広島に投下された。
8月9日に第2粒の原子爆弾を長崎に投下。
8月8日にソビエト連邦は日本に宣戦布告した。
8月9日未明に日本関東軍満州傀儡政権を全面的に攻撃し、関東軍は全線敗退した。当日、中国共産党中央委員会の主席毛沢東が「対日本最後の一戦の声明」を発表した。
8月10日、朱徳総司令は解放区軍隊に進軍令を発表した。
当日、日本政府は駐スイス公使に指示をし、スイス政府を通じてアメリカ政府に「……日本政府は天皇陛下の全面平和を回復し、早く戦争のために受けた計り知れない災難を終わらせるという尊厳の命令を尊奉し、……ポツダム共同宣言の条件……を受け入れる。」という覚書を渡した。偽国務総理張景惠や偽参議府議長臧式毅らは、8月10日に「防衛会議」を開き、日本関東軍総司令山田乙三の命令により、満州傀儡政権政府を撤退や留守の二部分に分け、偽満州国総務庁長官武部六蔵と古海忠之を代表にする次長たちを殘し、戦痕の後片付けをさせ、偽国民勤労省大臣于镜涛、偽民生部大臣金铭世、偽兴农部大臣黄富俊、偽交通省大臣谷次亨などは残ってそれに協力。偽総理张景惠、偽総務庁長官武部六蔵は、于镜涛を召して行動指針を授け、さらにそれを重んじる意を示した上、張聨文の代わりに「新京特別市」の市長に任命した。11日の真夜中、満州傀儡政権皇帝溥儀は偽参議府議長臧士毅、副議長橋本虎之助、参議张焕相、井上忠也、偽総理大臣張景惠、大臣卢元善、阮振铎、于静远などと協同で通化大粟子に敗走した。
8月15日に日本天皇はアナウンスで降伏することを発表した。
8月17日夜、満州傀儡政権皇帝溥儀は通化大栗子沟镇で「退位の詔」を公布した。
東北復興、満州傀儡政権覆滅、偽満新京特別都市公署も次に終わった。
1946年4月14日共産党は武力で長春を奪い取り、ソ連軍が撤退してから、共産党は早速武力で長春を奪い取ることにし、史上「四?十四」戦いという。
1946年3月25日に中国共産党中央は林彪、彭真に指示し:「あなた達はソ連軍が撤退する時に一、二日以内に長春、ハルビン、チチハルなどを抑制せよ。」
4月4日に当時ソ連軍の長春衛戍司令部副司令周保中が中共長春市委員会にソ連軍が長春を撤退する正確な時間を通知した。
4月8日に吉遼軍区は卡伦で軍事会議を開き、周保中、林楓が動員講演をし、陳光は戦闘任務を下した。
14日午後2時に、戦闘が開始した。
15日午前5時に、周保中は総攻撃の命令を下した。16日の未明に長春市駅を、夕暮れに「万字大楼」(今市図書館ビルは跡地である)を占領した。戦いの中で、東南縦隊副司令官吴恒夫が殉職し、32歳であった。
17日に市街戦が激しくなり、国民党軍は必死に抵抗した。
18日午前5時に現人民広場周囲の敵を殲滅し、正午般若寺や警察局、放送局を攻略した。午後2時に市政府ビルを攻略し、午後5時に、中央銀行ビルへの総攻撃を開始した。白刃格闘の中で、二十四旅団第7 O団の団長朴洛権が犠牲になった。四日三夜の激戦で国民党軍2500人余りを負傷させ、捕虜を14000人余り奪った。国民党の吉林省省長王宁华、長春都市の防衛司令官陈家禎、長春市市長趙君邁進、警察署長張炯、社会局長叶紹南、教育局長周百阶などの軍政高官55人の捕虜になった。 共産党の秘密スタッフで、国民党市政府の社会局長孫大光(建国後地質部長を務めた)と市政府参事孫亜明が同時に「捕虜になった」。防衛副司令官刘德溥は少数の部隊を卒いて脱出した。
1946年4月18日、長春は第一次解放をした。
18日夜、中国共産党長春市委員会、市政府、『長春新報』のスタッフが部隊と一緒に長春市に入った。
4月19日に中国共産党中央が電報で賞賛した;「長春の占領は東北や全国の大局への影響は極めて大きく、功労ある将兵に褒賞することを望む。」
1948年10月19日に長春第二次解放をした。 1948年10月15日、東北人民解放軍が関内と東北を連絡する喉都市である錦州市を攻略し、長春国民党守軍が関内へ逃げる通路を切断した。蒋介石は慌てて空軍を派遣して長春守军に自ら書いた命令を投下した。:「長春鄭副総司令洞国、曾軍長沢生、李軍長長鴻:酉灰(10月10日)手令計达(令状はすでに届いたと思う)。現在、敵の各縦隊は私に惹かれ、遼西方面にいるが、各部は命令に従って行動を開始すべきである。今は飛行機とオイルとも不足しており、例え守軍の全員が餓死しても、転機がこないと思う。もしこれ以上遅れて、戦機を失い、全般の戦況に不利をもたらしたら、同副総司令官、軍長などには命令に背く罪を問い、最も厳しい軍法の制裁を受けてもらうべきである。中本(正)刪日(十五日子時)はすでに瀋陽に来て指揮している。希知照(知らせる)、中正手启(蒋中正自筆)。十月十五日に巳时。」
国民党守軍60軍指令曾泽生が辛い追憶、思索を繰り返し、また国民党と共産党双方の力と比較してした結果、「蜂起」という賢明な選択をした。仮編21師師長隴耀、一八二師師長白肇学との密商を経て、10月15日张秉昌、李峥先を派遣して長春を抜け出し、解放軍の包囲部隊と連絡を取ってもらった。第一兵団副政治委唐天際は直ちに接見した。
10月16日に六十軍は一八二師副師長李佐、仮編二十一師副師長任孝宗を正式な代表として城を出てもらい、正式に話し合いを行った。
10月17日午前、城を包囲している解放軍は代表の刘浩を派遣し、李佐と長春に入って、六十軍司令官の曾泽生と蜂起の計画について話し合った。17日の夜に六十軍全体二万六千余人が、司令官曾泽生に率いられ蜂起し、18日午前、包囲部隊の独立第九師、第十二師を引き継いで守備任務を交代した。六十軍は九台に赴き、更生に向かい始めた。
六十軍の蜂起で、国民党新七軍の将兵にはもっと恐慌させ、長官の指揮に従わなくなり、解体に近い状態になった。仮編六十師二団の団長姚风祥は自ら解放軍と接触した。軍参謀長の蛇国鈞がこのことを知って賛同の意を示した。
10月18日の夜11時、新七軍三十八師の副師長彭克立、仮編第六一師副師長寧偉、新七軍軍部砲兵指揮官王及人、ニュース処副処長杨天挺、副官処副処長杨振漢、仮編第六十二師政治部主任の吴祥伯など7人の代表を派遣し、解放軍の代表の解方と交渉し合意した。
10月19日、新七軍は武器を捨て、投降した。
兵団司令郑洞国の所属兵団部機関やスパイ団は、依然として「中央銀行」ビルを拠点としていて、決断が着かない。双方の代表の交渉により、21日6時ごろ、鄭洞国らは銀行ビルを出て行って、車で解放軍第一兵団司令部の駐屯地四家子へ向かった。所属していたスパイ団の官兵達も同時に武器を下ろした。苦難の長春、戦わずに勝利し、解放を宣告する。
「国家級」文化財に認定された長春の遺跡/旧跡
長春は文化の都市であり、文化財的価値のある多くの構造物が所在していたが、今日に至るまでの長期に渡り国家級文化財として保護する機関が長春に無かった。だが、先日7日に市役所で開かれた記者会見会で、記者が第七組の全国重点文化財保護機関が国務院に認可された事を知った。さらに、わが長春市の8ヶ所18項目の遺跡?旧跡等の構造物が文化財として認可された事も初めて知る事が出来た。
これら8ヶ所18項目の国家級文化財は、靑銅時代から遼?金?清朝の末期から満州傀儡政権及び建国初期にいたるまでの最も典型的かつ代表的な文化遺産である。
認可された文化財を以下に記載する。
1、双陽区山河街五家子村に位置する五家子遺跡。
2、德惠市辺岗郷丹城子村攬頭窩堡屯の攬頭窩堡遺跡。
3、農安県農安鎮に位置する黄龍路と宝塔街が交差するところの農安遼塔。
4、東七道路との亜泰通りが交差するところに位置する吉長道尹公署旧跡。
5、満州傀儡政権皇居及び日偽軍政機構旧跡。
6、満州傀儡政権皇居旧跡(今の満州傀儡政権皇宮博物館)を含めた満州傀儡政権国務院旧跡(今吉林大学基礎楼)。
7、満州傀儡政権軍事部旧跡(今吉大第一臨床病院)。
8、満州傀儡政権司法部旧跡(今吉大新民校部)。
9、満州傀儡政権の経済部旧跡(今吉大中日聯誼病院二部)。
10、満州傀儡政権交通部旧跡(今吉大公共衛生学院)。
11、満州傀儡政権民生部旧跡(今吉林省石油化学工業設計院)。
12、満州傀儡政権の外交部の旧跡(今太陽会館)。
13、満州傀儡政権総合法衙旧跡(今の解放軍第四六一病院)。
14、日本関東軍司令部の旧跡(今省委オフィスビル)。
15、日本関東軍憲兵隊司令部旧跡(今省政府のオフィスビル)。
16、人民大街2030号に位置する偽満州国中央銀行旧跡。
17、紅旗街1118号に位置する長春映画制作所早期建築(長春映画制作所旧工場)。
18、長春第一自動車製造厂早期建築。「一五」の時期に建てた生産区と生活区の2地区を含める。


