長春の創建

  古跡を追跡する

  ここは一枚の肥沃な大地で,およそ4万年前からすでに人類が生息していた。

  1951年、長春地区の楡樹市で人骨化石と哺乳類動物の化石が発見された。出土物は早く太古時代から、長春の土地で生息していた人類はすでに智人段階に入り、旧石器時代の後期、母系氏族社会の初期に属することを証明した。

  1984年、農安県で新石器時代の人間の居住遺跡を発見した。原始の農業はとても発達していて、原始の紡績技術も把握しており、すでに着装時代に入っていた。

  長春地区で最も早く現れた都市は「夫余王城」であった。東漢から西晋まで、夫余族国家は中原王朝に属していたが、西暦493年、北方の勿吉族に滅ぼされ、その上西暦494年、夫余王が勿吉族に追われ、妻孥を連れて高句麗に身を寄せ、亡国した。

  北魏至高の初めは、高句麗は非常に栄えていた。もとの扶余都は高句麗の扶余府とされた。西暦668年、唐は高句麗を破った。  

  唐玄宗開元元年(713年)の後、渤海人が出現し、渤海国を築いた。今の長春地区は西京夫余府と莫頁頡府夫余府に属し、府治は長春市の迤南にあった。

  北宋時期には、遼帝国を築き、ともに遼東京通黄龍府を設立した(今の農安県)。

  北宋末年、西暦1114年9月、女真族各部は統治者の圧力に耐えられず、首領完颜阿骨打は兵を率いて遼に対抗し、1115年は黄龍府を撃破した。阿骨打はすぐさま帝位に着き、国号を金、年号を収国元年としたとともに1140年に黄龍府を済州と変えた。

  遼金時代は長春地区史上最も繁栄した時代であった。金国は何度も中原へ侵攻し、西暦1126年、金兵は宋朝の徽、?欽二帝を捕まえ、北上、一度この黄龍府に拘束した。南宋の抗金名将岳飛はかつて「黄龍府を破って、諸軍と痛飲する」と言っていた、ちなみに詩の中の黄龍府はこの黄龍府を指している。西暦1234年、金はモンゴルに破れ、滅亡した。1271年のモンゴル族政権は国号を変え、“元”とし、このあたりはモンゴルの遊牧地になった。    

  1644年、清兵が入関するとき、今の長春地区のモンゴル族人と満州族人はみんな八旗編制としていた。清王朝は柳辺を築き、封禁政策を実施し、税関外帝王の墓、皇家の猟場、満族の弓馬尚武の風俗の保護、江北の貢ぎ物、朝鮮人参、テンの毛皮、真珠、鹿茸などの資源の保障、各部族人民の流動の防止及び、漢民族の進入、開発の防止をした。

  時は流れ、何度もの歴史変遷を経て、ここは輝かしい文化と物質文明を創造した。ここもかつては戦うための戦場であった。ここの歴史の遺跡は、静かに当時の経過や悠久な歴史の功労及び過ちを反映している。

  原始集落

  長春市及びその週辺の町は、原始集落大発展の基礎の上に、町、村、屯が絶えず進化する過程の中で、長い歴史変遷過程を経て、次第に形成、発展してきた。長春原始集落は新石器、靑銅器と漢代の三つの異なる歴史時期を経て七千年以上を渡った。

  新石器時代の長春原始集落 新石器時代、長春は気候が暖かくなり始め、自然植物は森林と草原であった。この時期、長春原始人たちの活動領域は非常に幅広い。すでに発見された新石器時代の原始集落遺跡が7か所があり、主に伊通河と飲馬河流域に分布してある。そのうち、農安県5か所、德惠県と九台市に各1箇所があった。

  左家山遺跡は長春地区で一番早く発見された原始集落遺跡である。左家山は農安県城郊郷両家子村高家屯から南西500メートルに位置し、伊通河北岸の二級段丘にあった。ここは、水面より20メートル高く、水源が豊富、後ろに野原があり、漁、猟ができ、開拓にも適していた。長春の原始人たちはこれらの有利な自然条件を利用して、天然洞窟への依頼から抜け出し、定住、半定住した生活をし始め、それで最古の原始部落が現れた。

  1984年から1985年まで、吉林大学歴史学部の先生と学生は前後2回,農安県左家山に対して調査や発掘を行った。家屋遺跡が一箇所、焼土遺跡が2ヶ所、灰坑20箇所と大量の出土文物を発見した。家屋、焼土と灰坑遺跡は長春古人類の定住、半定住生活へのマークである。左家山遺跡から出土した生産手段や生活用具の中で、色々な形の缶、鉢、茶碗、様々な用途の斜め口器、直口器、帯流器;常備道具、錐、手斧、鑿、刀;持ち運びできない大きい石臼、円筒形の缶などがあった。左家山遺跡から出土した骨器、ドブガイの刀、臼、 磨棒から見て、人々はすでに火耕と耜耕をすることができ、採集経済から原始農業へ移行していた;出土した骨針、骨錐、陶紡錐轮から見て、人々はすでに原始の紡織技術を習得し、着装時代に入った;出土した小さな石竜、小石の葉、陶塑獣頭など原始工芸品などから見て、長春原始人がすでに審美観念が芽生え、信条と崇拝があった。左家山遺跡及び出土品は長春原始集落状況への理解と研究には非常に重要な意義を持っている。

  靑銅器時代の長春の原始集落 靑銅器時代は長春原始部落が大発展の時代である。すでに靑銅時代遺跡90ヶ所が発見された。そのうち、九台市33ヶ所、長春市郊外30ヶ所、農安県23か所、德惠市4か所があった。

  老河身遺跡は長春地区の代表的な靑銅器時代の原始集落であり、その年代は春秋戦国時代に相当する。老河身遺跡は楡樹市大坂鎮後崗村老河身屯南から500メートルの岡地にあり、南北の長さは100メートル、東西の幅は50メートルである。1980年から1981年までに、吉林省文物作業チーム、長春市文物管理委員会、楡樹県博物館が共同で考古、遺跡の発掘を実施し、二基の家屋遺跡を発見した。その一号室は不規則な長方形の半地穴式で、東西4.8メートル、南北3.35メートル、深さ0.3メートルから0.5メートルであった。穴壁が硬く、紅褐色や黒褐色で、一つの短い斜面の両側にそれぞれ柱の穴が一つずつあり、近くに長、短ばらばらな円形の炭の山があった。北壁に長方形の煙道があり、表面がつるつるしており、原始火坑の遺跡の可能性がある。出土品が陶鼎、陶碗、陶紡輪、鼎の脚、陶片などがあった。幅4.3メートル、空壁の高さは5センチから30センチ、壁がまっすぐで、ドアは東壁の中間に位置していたが、門道の形ははっきりしなくなった。室内の北西の小さい高台に陶鼎があり、殘鼎内に焼き土が積もっていた。この器物は火種を保存するための「火元缶」である。室内の出土品が陶鼎、陶缶、鼎の脚、橋状器耳と黄褐色陶片などがあった。二号室の近くにも似たような遺跡があるが破壊が深刻で、すでに形が見えなくなった。老河身遺跡は早期と晩期の二種類のタイプに分かれている。早期家屋遺跡の多くは地形の高い山の斜面や台地に建てられ、穴壁が深い。末期家屋遺跡の多くは地勢の低い平原に建てられ、穴壁が淺い。老河身遺跡の家屋の建築は、すでに半地穴式構造から浅地穴式構造に移行していた。

  漢代長春の原始集落 漢代、長春は原始集落が多くなく、7ヶ所しか発見されなかった。そのうち、楡樹市には4ヶ所、長春郊外2ヶ所、農安県1ヶ所であった。

  北紅嘴子遺跡は伊通河西岸、南関区幸福郷紅嘴村紅嘴子屯の台地の上に位置する。50年代,元吉林財貿学院(現在長春税務学院) 荆三林教授と元東北人民大学(現吉林大学)歴史学部の先生と学生たちは幾度も北紅嘴子屯を考古調査を行い、いくつかの原始遺跡を発見した。「その密集度はほとんど現代の村落に近い」、吉林大学の张忠培教授に“吉林市郊外の原始文化の「文化三」と称され、年代は漢に相当する”。原始遺跡の大部分が破壊され、少部分の遺跡しか残っていなく、その範囲は南北わずか20メートル、東西は50メートル余り、文化層(古代遺跡を含む地層)の厚さは0.5メートルから0.7メートルの間である。考古学の調査中に、石镐、石铲、複合陶、複合褐色陶、方錐鼎の脚、橋状器耳、大扳耳など豊富な出土品を採集した。伊通河沿いの古代文化、原住民文化と漢文化の相互関係の理解と研究に重要な意義を持っている。

  漢南北朝時期

  前漢の初期、夫余族が夫余国を創立した。領域は吉林省の大部分、黒龍江省の一部分と遼寧省の小部分を含んていた。その中心は吉林――長春地区にあった。

  夫余王城 夫余国には多くの町が建てられていた。その王城が二つある。「西徒」前、今の吉林市に建てられ、夫余前期王城といわれる。「西徒」後、今の農安県に移設され、夫余後期王城といわれる。夫余王城は他の東北の古城とは異なって「以吊栅为城」(柵で城の外囲いを作った),城内に宮殿、倉庫のほか、牢獄も設置されてある。建築の規模と技術は中原都市に及ばないが、当時の東北の各少数民族が建てた都市の中で、トップの地位に位置し、古代東北中部地方の中心都市になっていた。

  夫余城は吉林、長春地区が奴隷社会に入ってから現れたもので、特に「西徒」後、農安に移築してから、長春原始集落は古代都市への転換が完成した。長春都市歴史発展の序幕が開けられた。

  王城を廃する 夫余国は「当時の東北の各民族の中で最も早く強くなった国である」。夫余族は自分の奴隷制権を立てたにも拘らず、ずっと中原王朝に臣服していた。前漢時代、漢武帝は夫余王に「印綬」を授与した。後漢時代には「夫余王遣使奉贡,光武厚答报之,于是使命岁通」(つまり夫余王は使者を派遣して光武帝に貢物を献上し、朝廷はそれに対して厚く報い、それから後漢と夫余毎年往来し、関係を深めた)。三国魏が高句麗を討伐する際、夫余王は兵糧を提供し、曹魏軍に協力して高句麗を倒した。東晋時代、鮮卑族が侵入、夫余王は自殺した。晋武帝は派兵して、鮮卑族を追い払い、その子の復国の手伝いをした。西晋に入った後、夫余国勢は落ちぶれ、太和十八年(494年)、勿吉族が夫余国を攻撃し、後期に王城が潰され、大勢の夫余国人が、捕まえられたり、虐殺されたり、逃げ回ったりしたが、夫余王は身の回りの人を卒いて高句麗に逃げ、夫余国は滅亡した。

  西晋の後期、夫余後期王城の東の広大な地域は高句麗に占領され、それは170年にも渡った。高句麗は隋唐王朝の討伐を防ぐため、南の営口から北の農安まで、土塁を築いた。史上「千里の長城」と称する。唐乾封3年(668年)、唐军は高句麗北方の軍の要衝夫余城を陥落させた後、朝鮮半島に進出し、秤壌城を落とし、高句麗が滅亡した。

  唐渤海时期

  高句麗末期、今の長春地区北部の挹婁族が台頭した。挹婁族は粛慎族係に属し、南北朝時代は勿吉族と、隋唐時代は靺鞨各部と言われ、「震国」を建国した。開元元年(713年)、唐玄宗は大祚栄を「渤海郡王」を冊封し、震国を渤海国に改称した。唐王朝の支持のもとで、渤海国は「尽得夫余、沃沮、弁韩、朝鲜、海北诸国」(つまり夫余、沃沮、弁韩、朝鲜、海北诸国を自分の領土にする)、相次ぎ領域を拡大し、その時の東北地区の重要な政治の力になり、「海東盛国」と称した。渤海国は唐王朝の郡県制を真似て、夫余故地に夫余府(今の農安県)を設立し、壊された夫余後期王城が回復することができた。夫余府は渤海国西部に位置し、契丹の境と接しており、渤海国西中辺境の要衝で、その都市機能は、主に三つあった。

  国境貿易中心 唐王朝の藩として、渤海国は唐文化の吸収をとても重視していて、先進技術を導入し、生産の発展を推進した。「扶余の鹿」、「莫颉の豕」、「顕州の布」、「人城の鉄」は当時の重要な生産物であった。渤海西部の今の長春地区は渤海中部経済区の重要な部分で、粟麦を豊富に産出していた。建国時期、渤海は契丹と友好関係を結び、国境貿易の往来が頻繁に行われて、辺境の人人は有無を相通するほか、主に渤海の鉄製品を契丹の畜産物と交換していた。鉄の産量は多く、渤海の人人は夫余府を通して「余分な鉄を契丹と交換していた」、境域国は唐王朝の郡県制を真似って、夫余故地に夫余府(今の農安県)を設立し、壊された夫余後期王城が回復することができた。夫余府は渤海国西部に位置し、契丹の境と接していて、渤海国西中辺境の要衝で、その都市機能は、主に三つあった。

  交通の要衝 渤海国は政治経済発展の需要に適応するため、それぞれ契丹、新羅、日本、唐王朝への五つの交通ラインを開拓した。 

  一つ目:朝貢道。水路を主として、唐都西安へ直通の交通線ラインであった。

  二つ目:日本道。陸路と海陸二つがあり、渤海の臣が日本への交通ラインであった。

  三つ目:新羅道。朝鮮半島への交通ラインであった。

  四つ目:営州道。営州(現在の朝陽市、遼寧省)は唐に派遣されて渤海を管理する節度使の駐屯地であった。営州道は双方の使者が往来するための交通ラインであった。

  五つ目:契丹道。渤海国から夫余府を経て、契丹への交通線であった。渤海都城上京龍泉府(今アムール川省宁安県渤海町)から西へ出発し、張広才嶺を越え、夫余府につき、夫余府を出て契丹領地に入り、長嶺、通遼、開魯を経て、契丹都城临潢(今内蒙古治自区马林镇)に到着する。二つの地方政権の相互交流は主に契丹道を使い、さらに夫余府を通らなければならない。夫余府は契丹道の交通の要衝となっていた。

  軍事の要衝 建国初期、渤海と契丹は互いに「聘问臣」を派遣する、双方の友好的往来が頻繁となっていた。文王以降、渤海と契丹の関係が疎遠になり、国境に時々衝突が発生し、渤海国は止むを得ず?常屯劲兵焊契丹」(つまり夫余府に精兵を駐在させて、契丹の侵入を防いだ)。そのため、夫余府は渤海国西部国境の軍事要衝になった。天赞三年(924年)、渤海は契丹属地の遼州(現在の遼寧省新民県)に侵入し、刺史张秀实を殺してその民を奪った。天顕元年(926年)、遼太祖は「代々の仇をいまだに討てず」を理由として、自ら渤海国に赴き、迅速に夫余府(今の農安県)を包囲し、三日でこの軍事要衝を破った。さらに立て続けに忽汗城(渤海上京府)を包囲したため、たまらず渤海王は降服し、渤海国は滅亡した。

  宋遼金の時期

  両宋の時期に、長春地区は相次いで遼、金2つの封建王朝に管轄された。遼、金時期は、長春の古代農業大開発の時期で、長春の古城が大発展の時期でもあった。

  古城の型 都市は生産発展の産物で、古代長春市の形成と発展は農業開発と密接な関係がある。長春古城の建設は、夫余国が建設した夫余後期王城から始めたもので、渤海時期は夫余後期王城を夫余府に改築したほか、あまり古城を建てなかった。遼金時期では、元元あった古城を踏襲する上で、大量の古城を新築した。すでに約90基の遼金古城が見つかられ、そのうち德惠市に26基、農安県23基、九台市は22基、楡市11基、双陽区7基、長春郊外1基があった。これらの古城の機能はそれぞれ異なり、州県治所、 猛安駐屯地、軍事城、交通の駅、倉庫、貿易センターなどがあった。

  規模から見て、遼金古城は3タイプに分けられている:一つは大型古城であった。週囲は3000メートル以上、最長3840メートルで、多くは、州一級政権の所在地になっていた。農安古城は規模雄大で、城壁が高く、当時、東北の四大要所の一つであり、遼王朝は東北中部地区の行政と商業の中心地でもあった。《奉使行程録》によると、農安古城は「雑諸国風俗」の都市で、契丹人、女真子人,漢人、渤海人、奚人が住んでいた。「凡聚会处,诸国人语不能相通時、则以汉语为证方能辨之」(つまり集会などがある時、それぞれ言葉が通じないので、漢語を使って、理解してもらっていた)。取引で使った度量用具は、全て中原王朝の用具を基準にした。金の時期に、農安古城の役割は、依然として東北中部地区の行政、軍事、交通の中心地になっている。二は中型の古城であった。週囲は3000メートルから1000メートルの間で、施設が整えてあった。多くは州県、猛安谋克の一級の町で、例えば、万金塔古城、山泉古城などがあった。三は小型古城であった。週囲が1000メートルから100メートルの間で、100メートルもないのもあった。これらの古城は施設が整えられていないため、多くは边堡式戍守一级の町となっていた。

  古城の分布 遼金古城の分布は四つの特徴があった:一目は河川沿線に密集していた。90基の古城の中で、伊通川沿いには10基、饮马川、霧开河沿岸には8基が分布されていた。計38基で、古城の総数の42.2%を占めていた。遼金時期、長春境界内の交通往来は、主に水運や陸上輸送により、川沿いの古城を利用して、水路と陸路、平野と山岳地帯の間の交通を繋ぎ、道、府州県と広大な農村の間の往来の連絡を解決した。二目は中心都市が出始めた。遼金時期、農安古城の近くに、多くの小型古城が分布していた。形成地は農安古城を中心に大小まちまちで、機能が異なる衛星旗鎮であった。三つ目は居民区は城内になく、城外にあった。考古を通じて、遼金古城内部の多くは官司や貴族たちの居住地で、古城の近くにはかなりの居民区の遺跡が分布しており、これは中原王朝の古城とは異なることが分かった。四つ目は大型古城の近くに同時代の墓地があった。例えば、農安県好来宝古城付近の金代墓地などがあった。

  元明清時期

  元が金を滅亡し、明清を経て、長春庁を設立する前まで、長春地区は相次ぎ3つの封建王朝の管轄を受け、その期間は600年にも渡った。この時期、長春地区はモンゴル族の主な活動地域になっていた。モンゴル族は遊牧民族で、モンゴル貴族が発動した戦争は「志在掳掠,得城旋弃」(つまりすべてを攫ってしまい、占領した城を遊牧地にするとのことである)。その影響を受け、長春地区の古城は、元王朝の軍事要衝の農安古城のほか、ほとんど戦火に消えた。開墾した黒土地の大部分はモンゴル王公の遊牧地になっていた。

  元「東道諸王」遊牧地 モンゴル汗国を創立してからまもなく、元太祖チンギス・ハ ン(成吉思汗)はモンゴル本土の東側の遊牧地を彼の弟たちに分封し、併せて「東道諸王」と称した。モンゴル軍に従って南下し、「東道諸王」を代表するモンゴル貴族たちがこれを機に自分の領域を拡大しようと、相次いで遼西、遼東の広大な地域を占領した、さらに今の長春地区を含む東北中部地区も占領された。太宗オゴタイ?ハン(窩闊台)は五年(1233年)、「東道諸王」を主力としたモンゴル大軍で東夏(長春地区を含む)を攻撃し「東土悉平」(つまり、東夏の土地をすべて平らにする)、東夏国が滅びた、翌年金王朝も次に覆滅した。太宗は東夏故地で「立開元、南京二万戸府、治黄龍府(今の農安)」(つまり開元、南京二万戸府を設立し、黄龍府(今の農安)を立て直した)。元至二十三年(1286年)、元の世祖フビライ(忽必烈)は国号を?大元」に改め、黄龍府を開元路に昇格した。治所は黄龍府(今の農安)に設置した。黄龍府は元王朝が東北中部と北部を統制するための政治、軍事中心になった。至元二十四年(1287年)、「東道諸王」の中で最も勢力の強い乃顔部が反乱を起こした。フビライが乃顔の反乱を平定した後、東北への政治を強化し、東北地区の軍政機構を調整した。至政2年(1342年)、開元路治所は南の咸平府(今の遼寧省開原地区)に移し、黄龍府は中心都市から一般都市に下げられ、それから衰退へ向かった。

  明の納哈出(ナガチュー)遊牧地 元王朝の統制下の東北地区の各民族は領地を分割して居住していた。東北南部は漢民族の農耕区;東北東部はモンゴル族の遊牧区;東北東部は女真族の漁猟区;東北中部、特に今長春一帯はモンゴル族と女真族らの混住域で、大半は遊牧地になっていた。明王朝建国初期、明に負けたくない残元勢力は、さかんに割拠を行った。最も勢力の強い元太尉ナガチュー(納哈出)は、20万人の大軍を卒いて、金山一帯の明軍と対峙した。失敗を重ねた後は、残兵を東北中部農安伊通河一帯に配備して、頑強に対抗した。洪武二十年(1385年)、明太祖が20万人を徴収して東北へ赴き、幾度の激戦を経たうえ、納哈出(ナガチュー)は部を率いて降伏し、明は東北を討伐する戦役の決定的な勝利を得た。残元勢力を制御し、女真などほかの少数民族をなだめるために、明王朝が広域で衛所を設置し、分割統治した。投降したモンゴル、女真の貴族は族などに、「授職勅書」を授与し、一律元の生活拠点で、国境を守って、人民に安心して生活してもらい、さらに「各领所部,以安畜牧」(部を率いて、畜牧を保護、発展させる)という命令も出した。納哈出(ナガチュー)が降伏後、海西王に封じられ、一部分は中原に移転、一部分はそのまま残った。今の長春の部分地区が依然としてモンゴル王公の遊牧地になっていた。

  清の郭尔罗斯(ゴルロス)遊牧地 ゴルロスはもともと契丹の領地で、後に元太ジョチ?カルサ(哈布図哈薩爾)に徴服され、モンゴル王公の遊牧地になった。第16代目の孫ウバシ(烏巴什)の時は、松花江と嫩江を境に、ゴルロスを2つの旗に分けられ、一つはゴルロス前旗で、二つはゴルロス后旗であった。ウバ什(烏巴什)の孫で、コムウ(固穆)は後金と友好関係を持ち、清朝がモンゴル諸部との戦争中に戦功を立てた。1636年、清太宗はコムウ(固穆)をゴルロスザサーク鎮国公に封じ、前旗を司らせた。1648年、ブムバ(布木巴)をゴルロスザサーク補国公に封じ、后旗を司らせた。長春地区の双阳、楡樹と九台東部は満族の貴族の漁区であったが、長春郊外、德惠、農安と九台西部はモンゴル王公の遊牧地になっていた。

  設置沿革

  〔設置沿革〕長春市は東北の辺境に位置する。今から二〇〇〇年前には、北方粛慎族が生活していた場所であった。漢から西晋までは夫余国の属地であった。その後、高句麗の管轄境地になっていた。唐代の後半、渤海扶余府に所属していた。遼は東京道黄龍府に属していた。金の時は上京道ロンアン府に属していた。元の時は遼陽行省開元路に属していた。明代の時は長春で其塔木衛、亦東河衛、木古河衛が設立された。清朝設治前には、モンゴルゴルロスザサーク鎮前旗ザサーク補国公の領地に所属していた。

  清朝初期、朝廷はずっと東北に密封政策を実施していた。乾隆朝以降、大面積の土地が開発され、人口が急増、嘉慶五年(1800)清政府は始めて長春に長春庁、理事、通判を設置し、吉林将軍に隷属した。2000年1月17日、中国共産党長春市常務委員会の討論を通じて『長春築城200週年を記念するイベントの全体方案』が可決され、1800年7月8日を長春城の記念日にし、道光5年(1825年)、長春治所は寛城子に移転した。同治四年(1865年)外堀を掘り、板の城壁を建築した。光緒の14年(1888年)、長春庁を長春府に昇格した。1913年3月、長春府を長春県に改め、県公署を設置した。1925年、長春市政公所を設置、1929年9月、長春市政公所と長春開埠局が統合して長春市政準備所と改称して、長春市の建設を計画し、実行した。1931年9月18日、日本帝国主義が「九?一八」事変を引き起こして、翌日長春が陥落した。1932年3月、偽満州国が長春に都を定めることを公布し、「新京」に改名した。8月、「新京特別市」に改め、偽満州国国務院に隷属する。1945年8月15日、日本は無条件降伏を宣言し、偽満州国は次に崩壊した。12月20日、国民党中央政府は長春市に長春市政府を設置し、吉林省に隷属する。

  1948年10月19日、長春が解放された。中国共産党長春市委と市政府が軍に付き従って入城した。長春市は長春特別市に改め、東北行政委員会に隷属した。

  1949年5月9日、長春市政府は市人民政府に改称、吉林省に隷属した。

  1953年8月1日、長春市は中央直轄市になり、東北行政委員会によって代理された。

  1954年8月1日、東北行政委員会に決定され、長春市は吉林省直轄市に改め、9月27日、吉林省人民政府が吉林市から長春市に移転し、長春市は吉林省省都になった。

  1955年2月22日、吉林省人民委員会は長春市人民政府を長春市人民委員会と改称すると宣言した。

  1958年11月、国務院の承認を受け、双阳県、九台県、德惠県、農安県、楡樹県が長春市の管轄になり、長春市が県を管轄する体制を実施することになった。

  「文革」期間、1968年3月6日に長春市革命委員会を成立した。

  1980年6月1日、吉林省人民政府が長春市革命委員会を長春市人民政府に改称する通知を出した。

  1988年8月31日、民政部の民行批「1998 ] 18号文件に基づき九台県を取り消し、九台市(県級)を設立した。

  1989年2月、国家は長春市国家計画単列市に承認し、副省級の経済管理権限に相当する権限を与えた。

  1990年12月26日、国務院は、楡樹県を取り消し、楡樹市(県級)を設立する許可をした。

  1993年7月に、国務院は各省都市の計画単列を実施しないことを決定した。長春市は同年12月に計画単列市を中止した。

  1994年2月25日、中央機構編成委員会の文件(編『1994 ] 1号)に基づき、中共中央国務院の承認を得て、長春市は副省級都市となった。

  1994年7月6日、民政部の文件(民行の「1994 ] 97号)に基づき、德惠県を取り消し、德惠市を設立した(県級)。

  1995年8月、国務院の「同意調整吉林省長春市行政区画の返答文件(国函[ 1995 ] 65号)に基づき、長春市郊区を取り消し、緑園区を設立した;双阳県を取り消し、双陽区を設立した;二道河子区を二道区に改名した。そこで長春市は6つの区(南関区、宽城区、朝陽区、二道区、緑園区、双陽区)、3つの県レベルの市(九台市、楡樹市、德惠市)、1つの県(農安県)を管轄する行政設置の形になった。

  〔長春庁〕モンゴル遊牧地に流れ込んだ漢人を管理するために、嘉慶五年五月戊戌(1800年7月8日)、清政府ゴルロス前旗境内に長春庁を設置し、治所を今の新立城に置いた。理事通判を設置し、漢人の民事事務を管理してもらった。歴史上の「借地設治」と言う。庁は清政府が地方行政レベルの呼称で、当時の長春庁には理事通判と巡検が一人ずつ設けられた。通判官衙の職責は「弾圧地方、管理词讼、承办一切命道案件」(つまり地方を制御したり、訴訟を管理したり、人命案件を引き受けたりする)。長春庁の初代理事通判はラッガト(六雅图)というモンゴル人で:巡回点検はハンギョクシン(潘玉振)という漢人であった。当時は地を借りて管理するので、彼らが境内に流れ込んだ民人事務しか管理できなく、現地のモンゴル遊牧民と外来の八旗人は彼らの管轄範囲内に入っていない。長春庁の治所設置で、大量の関内流民が伊通河沿岸の肥沃な土地に住み着くことになった。当時長春庁の管轄範囲は今の九台県境界内の沐石河まで、西は今の大屯鎮附近まで、南は新立城ダムまで、北は農安境内までであった。庁下は懐恵、沐徳、抚安、恒裕の四郷があり、その後、また農安郷を増設し、計五郷を設立した。このような状況のもとで、長春庁長官、モンゴル王公が漢人流民との間に特殊な関係が形成された。長春庁長官は漢人の訴訟を取り調べることができるが、モンゴル王公の事務が干渉できない;モンゴル王公が長春庁管轄境内にカウンターを設け、地租などを徴収することできるが、漢人の「訴訟」に関われない;境内の漢人流民はモンゴル王公貴族と満族貴族の二重の圧迫に耐えなければならなかった。

  新立城は地勢が低く、交通が不便であったため、道光5年(1825年)、清政府は、長春庁治所を寛城子に移設することにした。寛城子はもともと大きな町で、地理的条件に優れ、交通網も発達していた。長春庁が寛城子に移ってからの町発展は非常に速く、時を経たずして、開墾地区の行政中心としての機能を十分に発揮することができた。同治四年(1865年)、長春が馬傻子儀軍が襲来してきたため、城内商家たちが出資して、長春を囲む壮大な城壁を構築した。この城壁は南北2キロメートル、東西3 . 5キロメートルで、南端は現在の長春大橋で、そこから西へ、全安街を経て民康路まで、さらに民康路に沿って、北西へ、西三道街双橋子あたりまで続き、そこからさらに北へ伸び、四道街、平治街を通り、今の第七中学の東側を過ぎたあたりから、東北方向へ大経路と長春大街の交差点まで続き、さらに東へ長春大街、大馬路、永長路を通り抜け、東門裏まで続き、そして南に折れた後に、東門裏路東側の伊通川西岸台地に沿って南西へ伸びて、大馬路南端までと続く。全長約10キロの長大な城壁であった。当初の城壁は木材で構築され、高さ3メートルで、四ヶ所の門が設けられた。1897年にはさらに強硬な煉瓦構造に改築され、高8.25メートル、幅6.6メートル、そして小さい扉が付いた6ヶ所の城門櫓門が構築された。櫓門は東の崇徳門、南には全安門、西には聚宝門、北には永興門、さらに南西には永安門、北西には乾佑門と称され、それぞれの6つの小さな門扉は小東門、小西門、马号門、東北門、東双門、西双門と称されていた。

  また、城内には12本の主道があり、城外には城を囲むように堀を掘られ、伊通河に流れ込んでいた。このように防備された町の建設が、長春の経済発展に大きく影響を及びました。寛城子市街は地方開墾地区中心から農業副産物の集散中心に発展し、週りには、卡伦、万宝山などの10数個の町が新設されるほどであった。しかし、封建社会の末期に建てられたこれら寛城子の優れた構築物も、交通網の発展など時代の推移と共に、城門や城壁が続々と姿を消すことになった。

  〔長春府〕光緒14年(1888年)、清政府は、長春庁を長春府に昇格した。この時期、長春の都市建設は急速化し、旧市街のほかに、また四つの街を新設した。

  中東鉄道付属地 日清戦争後、ロシアは中東鉄道の道普請権をうばった。1898年にハルビン――寛城子段鉄道の建設に着工した。1889年から1901年まで長春二道溝一帯で寛城子駅を建設し、552ヘクタールの土地を占領し、ロシアの付属地になった。付属地に広場、駐車場、貨物先、給水塔、兵舎、商店、学校、クラブやロシア人の住宅等が建てられた。中東鉄道付属地はロシアの勢力範囲になり、行政?司法などの特権を享有していた。ロシアの侵入が長春民衆の抵抗を巻きおこした。光緒26年(1900年)、長春義和団が寛城子駅とロシア人の住宅を放火して焼却した。長春府関係者を驚かせ、シャジュキン(謝汝钦)府知事は自ら出向き、鎮圧した。さらに清政府はロシアとぐるになったため、長春義和団はすぐに鎮圧された。ロシア人がこれを機に勢力範囲を拡大し、石碑嶺や陶家屯の二つの鉱山を占領し、ほしいままに長春の石炭資源を略奪した。

  南満鉄付属地 日露戦争後、ロシアはやむなく長春南の中東鉄道のすべての権益を日本に譲渡した、長春市は、日本、ロシアの二つの帝国主義が勢力範囲を区分する分かれ目になった。1907年、日本は長春の頭道溝と二道溝の間に駅(今の長春駅)を建て、長春旧市街と寛城子駅間の連絡を切断した。ロシア勢力は西北の隅に孤懸するようになった。日本帝国主義はさらに付属地を拡大した。最初に水問題を解決することを口実に土地を買い上げたが、続いて、緑化を名乗って、西公園(今の勝利公園) を盗買い、そして「奉郭戦争」を機に土地を丸呑み、付属の面積は508ヘクタールから676ヘクタールに拡大した。南満鉄道付属地と中東鉄道付属地が両方とも「国の中の国」になっていた。日本帝国主義は付属地に憲兵隊、鉄道守備隊を駐屯させ、警察署と満鉄事務所を設置した。日本の商人らは付属地内で、商店、旅館、酒場、女郎屋、賭場を開設し、特権に頼って、密輸したり、薬物を販買したり、窃匪を隠匿したり、銃器弾薬を販売したりして,南満鉄道付属地は罪悪の巣になった。                                       

  長春市商業港 長春の港町は清政府に建てられ、清政府は日本帝国主義との対立、結託の産物であった。日露戦争後、日本帝国主義は「中日会議の東北三省後始末事宜条約」を実行することを口実に、清政府に東北16都市の開放を要求した。光緒32年(1906年)、長春が命令を受けて開港した。港町地は旧市街と満鉄「付属地」との間に建てられ、敷地面積は400ヘクタールで、16本の道路と34条の町路地を建てた。通商開始する前に長春には伝統的な手工業しかなかったが、通商開始後、民族工商業が急速に興って、日露などの帝国主義勢力と激しく競争をしていた。約10年近くの建設を経て、開港地には商号1488世代、銀行、鉄荘88世帯、病院、茶屋、芝居園62世代ができた。一時非常に繁盛していた。

  吉長鉄道用地 清末、東北中部には吉林、長春の二つの経済区が形成されていた。二つの経済区を繋がらせるため、清政府は吉林―長春鉄道を修築した。1909年に着工し、1912年開通した。鉄道輸送の需要に応じるため、清政府は長春伊通河東岸に吉長駅(今の長春東駅)を建てた。敷地は100ヘクタールであった。日本帝国主義はローンや、技術提供を餌にして、経営権を制御した。吉長鉄道は南満鉄道の支線になった。

  〔長春県〕1913年(民国二年)、中華民国政府は長春府から長春県に改め、面積2028.6平方キロメートル、人口の55.7万人であった。民国の初め、東北の政局は復雑でよく変化していて、社会が不安定になっていた。遼寧、吉林、黒竜江三省軍閥がそれぞれ兵を擁して勢力を強めた。奉係軍閥の張作霖は奉天省を安定させた後(現在の遼寧省)、吉、2二省も併呑しようとたくらんだ。1917年(民国六年)、張作霖は孟恩远が離任を拒むことを理由に吉军に長春で抵抗の準備をさせた。徐世昌の幕の裏の調節により「奉吉暗潮」が取りあえず収まった。1919年(民国八年)、駐長日本軍は「寛城子事件」を引き起した。駐長吉軍は撤退し、張作霖に身を寄せた。孟恩远が追い込まれ失脚し、吉林省が結局張作霖に制御されるようになった。

  清末民初時期、長春の都市発展は急速になり、時を経たずして東北地方中部地区の中心都市になった。鉄道開通前、毎日2 000台以上の荷車が長春を往復したが、鉄道開通後、都市交通機能が拡大、瀋陽、ハルビン、吉林の貨物輸送量が大幅に増加した。毎年運び出した木材、大豆の数量は東北首位に立っていた。この時期、帝国主義は長春で工場、商店、ダンピング洋品店などを開設した。表面上は、長春は一つのまとまった都市であるように見えるが、実際にはすでに完膚なきまでに分割され、清王朝及びその後の中華民国政府と日、露両帝国主義勢力に共同管理され、長春は典型的な半封建、半植民地都市になっていた。

  満州傀儡政権の歴史

  1931年長春陥落から1945年長春回復まで、日本帝国主義は長春を14年間に渡って統制し、長春市を植民地都市にしていた。この時期、長春の都市建設のスピードはとても早かったにも拘らず、長春人民が塗炭の苦しみの中で生活していた。

  1931年9月18日、日本帝国主義が国内外を驚かせるような「九?一八」事変を引き起こし、19日、長春が陥落した。長春の地理位置がほどよく、交通が便利、地価が安く、軍閥勢力とロシア勢力の影響が小さい等。日本の帝国主義は政治、軍事上の事を考慮して、長春を偽満州国の国都に決め、ここを中心して、植民地政策を推進し、東北全体を制御しようとたくらんでいた。長春は、偽の国都に落ちぶれた後、都市の性質と機能には重大な変化をもたらした。

  偽国都は日本が東北に植民地支配を実施する政治の中心で偽満州国ができた後、長春で巨大な中央機関が設立された。溥儀の「登基称帝」の偽皇居から、偽国務院及び所属の各都まで、特に日本関東軍大本営は、皆威厳、雄大な近代化建築に包まれ、極力偽国都の政治尊厳と植民地支配の気勢を顕示していた。

  日本の侵略者は「内部統轄」の手段を選んで、偽皇帝の身の回りに「御用掛」を設け、溥儀の行動を指導、監視する;日本人が偽国務院の総務庁長官に任命され、偽国務院のすべての活動を制御する;「次長制」を推行し、日本人に各部の副職を務めさせ、実権を握らせる。これらのすべてが日本関東軍司令部に従ったことで、関東軍司令部が満州国偽太子皇を支配することになった。広東軍司令部に操られ、一連の残害東北人民の「国家防衛法」、「治安警察法」、「暫定保甲法」、「暫定懲罰裏切り者法」、「暫定匪賊処罰法』、『思想矯正法」などの法律が仕立てられ、長春から東北各地へ推進し、長春市は日本帝国主義の植民地支配の政治中心になった。

  偽国都は日本の東北の資源を略奪する経済中心であった。日本の植民地支配の根本的な目的は略奪であって、この略奪行為を企画する主な機関は満業、満炭、満拓など90余のいわゆる「特殊会社」であり、これらの機関の本社の多くは長春に設け、顕著な地位に立たせ、偽国都もこの「特殊会社」の天下になった。日偽支配者はこれらの会社を「国策会社」を称し、それらを通じて道路,交通権を取得したり、税関を占領したり、金融を独占したり、産業を抑制したりして、東北の資源を略奪した。大同の広場に位置する(今の人民広場)偽満中央銀行は、日本の侵略軍が東北三省官银号、辺業銀行、吉林永衡官銀号、黒竜江省官银号など中国の金融機関を奪い取った基礎の上で、成立した東北金融活動を制御するための主な機関であった。各種の東北資源を略奪する陰謀活動は、すべてこれらの「国策会社」の企みにより、長春市は東北資源を略奪する経済統制の中心になった。

  偽国都は日本が東北民衆を権化する文化中心であった。日本侵略者は偽国務院総務庁内に弘報所を設け、東北文化事業を統括させ、反動世論を製造、宣伝した。彼らは傀儡政権を「独立国」と、ファッショ支配を「王道乐」と、略奪,圧搾を「共存共栄」と言い放った。それを彼らにコントロールされたニュース放送、映画プロデューサーによって、「新京」から東北各地に戎布し、愚民政策を推進した。

  東北人民の国民意識を徹底的に消し、より順民になるために、日本侵略者は偽都「新京」に「建国大学」、「陸軍士官学校」と「大同学院」などのいくつかの高等学校を設立し、日偽政権の「中堅官吏」を育成しようとした。偽満帝宮内廷に一基の「建国神殿」を建てて、日本の天照大神を満州傀儡政権の「建国元神」として祭り、偽皇帝の「新祖先」になった。また南岭などに「建国忠霊廟」、忠霊塔を建てられ、建国のために亡くなった人人の「日満英霊」を祭り、東北人民に強制的に参拝させ、参拝しないもの、敬わない者は、1年~7年の刑に処した。

  都である「新京」の重要さを示すため、偽満州政府は東北の安い労働力と豊富な資源を利用し、20世紀30年代の最新の技術を使って、都町の建設に力を注いだ。東北陥落期間、偽都市「新京」では、計804万平方メートルの道路を建設し、363万平方メートルの道路を舗装した;25万メートルのガス管、365キロメートルの水道管、521キロメートルの排水管を取り付けた;主幹線道路を10本、次幹線道路73本、町路地143本、円形広場10箇所を建設した;鉄道5本を、航空線6本、市内公共自動車道45本を開拓した;公園10箇所を修築し、面積10.8万平方メートルを緑化した;住宅43143棟を建設し、合計建築面積774,5万平方メートルに達した。長春市は瞬く間に東北で有名な近代都市になった。

  偽国都の近代化建設は都市の植民地化に伴って成し遂げた物であり、所々で民族の威圧や階級の圧迫が反映されていた。

  偽都を建設する直前に日本侵略者は数千戸にも上った農民を追放した上、40近い村を滅ぼし、都市の外れに新たな貧民区を建設した。日本侵略者は新区の建設にのみ力を入れ、旧区の発展は考慮せず、たとえ古ぼけて、ボロボロになっても、ほぼ変化は無かった。新区には電力、ガス、供水、排水、通信、緑化等の近代化施設は何でもあった。それに対し中国人の暮らす旧区は程遠い環境であった。日本人居住区である新区の水道普及率は99,9%であったのに対し中国人居住区の旧区は30%にも満たず、ガスはほぼ新区に集中し、日本人のガス使用率99,3%、中国人のガス使用率はたったの0,7%であった。偽満州国当局は「日系住宅」を6つの等級に分けていて、一等は100平方メートル,二等は86平方メートル、三等は68平方メートル、四等は45平方メートル、五等は38平方メートル、六等は25平方メートルであった。「満系住宅」の標準は三つの等級に分けられていて、一等は38平方メートル、二等は25平方メートル、三等は20平方メートルであった。一等標準の「満系住宅」は「日系住宅」の五等に相当していた。違いが掛け離れていて、まるで別世界のようであった。

  偽満州国

  偽満州国は日本の中国東北で創立した傀儡政権である。。

  1931年、日本は「九?一八」事件を引き起こし、中国東北を侵略して占領した。

  1932年3月9日、日本は正式に偽満州国傀儡政権を確立し、溥儀が「執政」、郑孝胥が「国務総理」、年号は「大同」にした。その下に民政部、軍政部、財政部、外務省、司法部、実業部、交通部、立法院、監査院、参義府などの機関を設置した。

  1934年3月日本は「満州国」を「満州帝国」に、「執政」を「皇帝」に、年号「大同」を「康徳」に改めた。

  1945年8月15日日本は無条件降伏を公布した。8月18日、溥儀は通化で第三次退位を公布し、偽満州国滅亡した。

  偽満州国の行政制度 

  偽満州国成立後、日本は中国東北で省を縮小して、分割統制する策略を実施し、地方の政権機関を何度も改組した。1934年10月、日偽は遼,吉、黒、熱(熱河省)の4省を10省に分け、即ち奉天省、吉林省、黒竜江省、熱河省、浜江省、三江省、間島省、安東省,錦州省、黒河省にした。また内蒙興安省(偽満行政区画制度)の四つの省を興安西省、興安南省、興安東省、興安北省に吊り上げ、合計14省になった。1937の年、さらに東安、北安の二省を設立した。1941年、また四平の省を設立した。そこで、日本は東北を17省に分解した。

  満州傀儡政権の遺跡

  「偽満皇居の簡単案内」美しい吉林省省都長春市の東北部に、現代建築の風格と異なる建築群があり、それは中国のラストエンペラー愛新覚羅溥儀が偽満州国傀儡皇帝をする時の宮廷遺跡である。それは日本帝国主義が中国東北を侵略することと溥儀とその後妃「ロイヤル悲劇」の歴史の目撃証言として保存されたのである。吉林省政府の承認を経て、吉林省級重点文物保護機関になり、既に長春市の重要な観光スポットと愛国主義教育基地にもなっていた。

  1931年9月18日、日本軍国主義がアジア制覇の野望を実現するために、前々からたくらんでいた「9?18」事変を引き起こし、直ちに東北3省を占領し、東北に対して約十四年間の植民地支配を始めた。日本侵略者は世間を欺くために、清朝ラストエンペラー溥儀を操り、1932年3月9日、長春吉長道尹司で偽満州国「執政」に就任させた。年号は「大同」であった。4月3日、また「執政府」を元吉黒権運局及び塩倉所在地(つまり今日満州傀儡政権皇居)に引越した。日本侵略者はその侵略政策に応じるため、溥儀の帝を称したい欲望を満足させるために、1934年3月1日、「満州国」を「満州帝国」に、「執政府」を「帝宮」に改めた。溥儀は「満州帝国皇帝」として、日本関東軍の意図と手配に従い、数千の反動法令を裁決し、恥辱の反動詔書を発表して、ここで十四年間の傀儡の生涯を過ごした。

  満州傀儡政権皇居の敷地面積は13.7万平方メートルで、西側は禁卫军兵舎と競馬場があり、中部が宮廷の本体部分で、東部は「皇帝」専用の列車線があった。宮廷の本体部分が東西二院があり、西院は中和門を境に内廷と外廷の二部分に分けられてある。中和門から北は外廷で、溥儀が事務や政務を処理したり、式典を行ったりするところで、宮廷事務機構の所在地でもあった。主要な建築物は兴运門、宫内府、憲兵室、勤民楼、懐遠楼と嘉乐殿などがあった。中和門から南は内廷で、溥儀とその家族の日常生活の地域で、主要な建築物は寝宮缉熙楼、中西膳房、茶室、西御花園、植秀軒、畅春軒等があった。東院の主な建築は1938年に日本人が溥儀のために建てた「同徳殿」のほかに、東御花園、建国神殿、防空壕、プール、書画楼などの付属建物があった。

  満州傀儡政権皇居主体建築風格を見渡すと、それぞれが異なり、中国伝統的な四合院の煉瓦、木構造の建築もあるし、ヨーロッパゴシック式の建物も、東洋式殿阁もあって、偽満州国の植民地色彩や偽満皇帝の傀儡性を十分示した。

  「満州皇居歴史沿革] 満州傀儡政権皇居は元吉黒権運局庁舎旧地で、1914年に建てられた。1932年4月3日、偽満州国「執政」を当てた溥儀がここに転居し、偽満州国の執政府となった。当時の主な建築物は溥儀の寝殿緝熙楼と、オフィスビルの勤民楼があった。

  1934年、偽満州国を「満州帝国」に改称され、溥儀は「皇帝」となり、執政府を宮内府と改称されたが、帝宮ともいい、皇居とも通称された。同年秋、懐遠階、清宴堂を建てられた。

  1936年から1938年、同徳殿が完成され、東花園は大体落成された。内に花壇、築山、プールなどの施設があった。

  1939年に同徳殿の南東約30メートルのところに、御用防空壕が完成され、その上に土盛りの山が作られた。

  1940年嘉乐殿が落成し、それは満州傀儡政権宮廷で大宴会を行う場所であった。同年、御用防空壕の南側に「建国神廟」建てられ、溥儀は第二次訪日の時に迎えてきた天照大神が、この建国神殿に供えた。同時に祭祀府も建てられた。

  1945年8月11日、溥儀が慌てて逃げ出し、建国神廟が関東軍に放火され、礎石だけが残されていたが、偽満皇居内の他の建築は破損しなかった。

  1945年から1947年にかけて、国民党が創建した松北聯中に占用され、その間勤民楼の二階、懐遠楼の二階が焼失した。

  1948年、国民党軍60軍が松北聯中解散後に皇居に入って兵営として使用したが、遺跡の内部に酷く破壊された。

  1949年から1982年にかけて、偽満皇居は相次いで、東北重工業機械学校(後には、動車メーカーの技術学校)、吉林省文化干校、省政法干校、省農業展覧館、省軍区教導大隊、長春市非金属第二材料試験機工場、吉林省博物館などの単位に利用された。

  1982年8月に長春市非金属第二材料試験機工場が移りだし、偽満皇居陳列館の制度が回復された。西院建築が修復された後、1984年に偽皇居は正式にオープンすることになった。

  2001年10月、吉林省博物館が移りだし、東院の主体建築が偽満皇宮博物館に帰属されたとともに2002年5月28日に一期復元工事が完成され、同日に対外開放された。

  解放戦争 

  長春市は東北大平原の中部に位置し、地勢は平坦、交通が便利で、戦略的な地位は非常に重要である。抗日戦争勝利後、国民党政府が勝利を奪うために、反人民の内戦を発動し、国共両党はここで激しい戦いを繰り広げた。

  (一)日本の降伏とソ連軍の長春進駐 1945年8月8日に前ソビエト連邦政府が対日宣戦し、百万の赤軍が東北に出兵し、日本関東軍が重い打撃を受けた。8月15日に日本が無条件降伏した。8月18日に偽満州国皇帝の退位を公布した。9月20日、ソビエト連邦赤軍が長春に進駐し、長春衛戍司令部を設立し、偽満州国各省大臣を逮捕し、溥儀とともに相次いでソビエト連邦へと連行された。偽都長春も東北と一緒に回復し、日本帝国主義が14年間をかけて苦心して営んだ偽満州国は全滅した。

  前ソビエト連邦政府が対日宣戦をした後、東北抗日聯軍と合同作戦をした。1945年9月20日に、抗联教導旅旅長の東北党委員会書記の周保中がソビエト駐長衛戍司令部司令官として、抗の聯部分戦士を率いて長春に進駐した。ソ連軍に協力して満州傀儡政権を引き継ぐとともに人民武装を組織し、民主政権設立の準備をし始めた。11月8日にソビエト連邦側の同意を経て、中共中央東北局が中共山東支局社会部長、山東省政府秘書長劉居英(身分未公開)を派遣し、長春市市長に就任させた。劉居英は長春市政府を受けた後、直ちにソ連軍に協力して軍管理の実行、市民正当権益の保障をし、自由貿易の発展、極悪非道の売国奴の厳罰、過酷な重税の取消、国民教育の興す、市政建設の展開など7項目の施政綱領を公布し、中国共産党の民主主張と平和な願いを表した。

  (二)受け入れと反上入れの闘争 抗日戦争勝利後、勝利奪うために、重慶で畏縮していた国民政府は趙君邁を長春市市長に任命した。1945年10月12日に国民党政府は東北野戦司令部主任委員長熊式輝、専員蒋経国を長春に派遣し、駐長ソ連軍に長春受け入れの協力を求めた。駐長ソ連軍は「中国内政、不便介入」(内政不干渉)を理由に熊式輝らの要求に拒否した。

  行政受け入れが失敗後、中国国民党は、合法政府として、『履行中ソ友好同盟条約』を口実にし、外交トラブルを引き起こし、駐長ソ連軍の権利移譲を求めた。国民党の外交攻勢と米英などの圧力のもとで、前ソビエト連邦政府はやむなく、瀋陽、長春などの大都市を国民党政府に委譲することに合意した。1945年12月14日、劉居英は長春市から撤退した。12月22日、国民党市長趙君邁が長春に入り、国民党に収容した満州傀儡政権の「鉄石部隊」刘德溥部を東北保安第二総隊に改編し、長春に空輸して、長春市は国民党と満州傀儡政権の殘党に制御される都市となった。1946年4月14日にソ連軍が長春から帰国し、午後2時に周保中が部を卒いて長春を攻めた。3泊4日の激戦を経て、守敌2万人余りを全滅し、国民党市長趙君邁などは捕虜となり、刘居英市長は長春に戻った。

  外交手段での受け入れが失敗した後、国民党は武力で受け入れることにした。1946年5月、国民党政府が10個師団の兵力を集中し、三つの方面から長春を攻撃した。敵強我が弱(つまり敵が強い、私は弱い)の情勢に直面した、劉居英市長と駐長東北民主連合軍は自ら5月22日深夜に長春市内から農村へ転入し、根拠地を打ち立てた。国民党は再び長春を占領した、尚伝道を国民党代行市長にした。国民党は長春を占領した後、反共反人民政策を推進し、「治安を整頓し共産党を清粛する」を名目にして、無実な人人を逮捕したり、殺害したりした。「日本の中国侵略資産」を受け入れを名目にして189の工場を押収した;「税収を整頓する」を名目にして、民衆の財産を略奪し、80 %の中小企業が相次いで倒産した;「私立学校を整頓する」を名目にして、教员の賃金を支給しなかった。国民党の反動統治は長春人民の怒りを巻き起こし、労働者、教師たちはストライキをし、長春大学の「反飢餓、反迫害?反遷校」の戦闘は次から次へと引き起こして、国民党の長春への統制が動揺した。

  (三)長春包囲戦と平和解放 1947年後、国民党は長春で東北「剿総」第一部隊を成立し、長春を固守することを企んだ。長春は満州傀儡政権に落ちぶれている間に、かつては日本侵略者の重点防衛措置を講じたところであった。国民党軍はこれを基礎にして、大いに城防工事を構築し、永久性、半永久的なトーチと掩蔽壕を150余りを修築し、要塞式の防御システムを形成した。東北人民解放軍は「久困重囲」(兵糧攻め)の作戦方針を取り、長春の国民党守軍に対して軍事の包囲、経済の封鎖と政治の瓦解を実施した。国民党の駐屯軍は待援を固守するために、「民を殺して軍を養う」の政策を推進、庶民の食糧を略奪し、庶民を城から追い出し、街路樹を伐採し都市建築を取り壊して、トーチカを修築するなどをして、この近代化都市長春は深刻な破壊を受けた。30.7%の建物が取り壊され、33%の送電設備を奪われ、70 %の給水施設が破壊に遭い、長春は被害の痕ばかりで痛ましい状態になっていた。

  「久困重囲」(兵糧攻め)の作戦方針で国民党守軍中の矛盾を激化させた。非直系部隊60軍が吉を捨て、長に身を寄せた後、居候になり、とても苦しい立場に立たれた。解放軍の激しい攻勢で、士気がぐらついた。解放軍は何度も代表を派遣し、司令官曾泽生と秘密会見をし、大義名分をさとして、武装蜂起を動員した。曾泽生が脱出望みがなく、篭城は必ず亡の厳しい情勢の下で、部を卒いて蜂起することにした。60軍が蜂起した後、新七軍が孤立無援になり、やまなく、解放軍に降伏した。戦況の傾きを見抜いた鄭国洞は武器を下ろして人民に身を寄せることにした。1948年10月19日、長春は平和に開放される。

  平和解放史はこれを「兵不血刃」(戦うことなく敵に勝つ)と称しているが、長春の平和解放は血の代償で換えてきたものであった。長春の優秀な民衆と兵士たちが故郷と全中国の解放のために、長春の包囲戦で4000人以上が死傷し、市街地で国民党に殺害された共産党員と愛国誌士は300人以上があり、あと10万の人民大衆は国民党政府の「殺民養軍」(民を殺して軍を養う)の政策で餓死し、長春この土地に永眠した。彼らは生の身と白骨で国民党と死闘をした結果、平和解放の勝利を得た。